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未来へと弧を描く、ソフトボールのまち・石狩が刻む一球

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未来へと弧を描く、ソフトボールのまち・石狩が刻む一球

石狩市プロジェクト

文:髙橋さやか 写真:斉藤玲子
 
青空へ向かって放物線を描くボール。その行く末に、その場にいる全ての人の視線が釘付けになる。一球一球が勝負のベースボール型スポーツ。
野球よりもコンパクトな距離感と、ひとまわり大きなボールで、迫力あるプレーが魅力なのがソフトボールです。
 
北海道石狩市では1980年代から「ソフトボールのまち」を掲げ、老若男女がソフトボールに親しみ、数多くの大会がおこなわれてきました。石狩市保健福祉部スポーツ健康課長として、「ソフトボールのまち」で奮闘する松永実さんにお話をうかがいました。

人生を変えたソフトボール

取材でうかがったのは、はまなす国体記念石狩市スポーツ広場。1989(平成元)年におこなわれた「はまなす国体※」で、ソフトボール競技会場になった場所です。当時高校3年生だった松永さんは、少年男子ソフトボール北海道代表チームのキャプテンをつとめていました。
 
松永:ソフトボールをはじめたのは、高校に入ってからでした。気軽な気持ちで入部したんですが、当時の監督だった尾崎正則先生(元日本ソフトボール協会専務理事)との出会いが転機でしたね。
練習に明け暮れていたある日、「松永は2年後の北海道国体の強化選手になったから」と、先生に言われて。ソフトボールから離れられない人生が、そこからスタートしました。

※はまなす国体は1989年に開催された第44回国民体育大会のテーマ。国民体育大会(通称:国体)は日本で毎年開催されるスポーツの祭典。

取材当日、用意してくれたグローブは国体出場時に使っていたものだそう。
取材当日、用意してくれたグローブは国体出場時に使っていたものだそう。

当時は「最弱」と評された、少年男子ソフトボール北海道代表チーム。地元開催の国体で、なんとか好成績をあげるため、強豪校の多い静岡県での合宿を高校3年間で6回もおこなったそう。練習試合では、こんてんぱんに打ちのめされていたといいます。
 
厳しい練習と試合経験を重ねたチームは、国体本番の初戦ではサヨナラ勝ちをおさめ、波に乗り、決勝まで勝ち進むことに。決勝の相手は合宿で胸を借りていた静岡県代表チーム。結果は1対0と、まさに恩返しの勝利で優勝を飾ったのです。
 
松永:いま考えても奇跡ですね。
 
その後、縁あって石狩市役所にお世話になり、この夏、インターハイの担当課長ということで、全国から集まったソフトボーラーのために力を尽くしたところです。

取材当日は、2023年8月8日まで開催されていた、インターハイ(全国高等学校総合体育大会)ソフトボール競技の熱気が残っているかのような暑さでした。
取材当日は、2023年8月8日まで開催されていた、インターハイ(全国高等学校総合体育大会)ソフトボール競技の熱気が残っているかのような暑さでした。

松永:このグラウンドは36年前、はまなす国体のために整備されたグラウンドですが、当時も今もコンディションの良い状態をキープしています。
 
広大な敷地に4つの球場がコンパクトにまとまってるグラウンドは、全国的に見てもなかなかありません。さらに雨が降っても水はけが良く、雨が止んだらすぐに試合が可能です。手前味噌な言い方かもしれないですけど、石狩市の財産であり、シンボルの1つだと私は思っています。
 
ーーいまもグラウンドを良い状態で保てているのですね。松永課長が思うソフトボールの魅力はどんなところでしょう?
 
松永:ソフトボールは野球よりもコンパクトなフィールドでおこなうので、間近で見られる迫力のあるプレーとスピード感が魅力です。プレイヤー目線での面白さは、なんといっても一球ごとの駆け引きですね。一球ごとに場面が変わって、 状況判断が求められる。チームの連携プレーも魅力です。
 
ソフトボールはマイナースポーツではありますが、野球とは違う魅力やルール、特性があります。そこに惹かれて、選手をつづける人、大会の運営に関わる人、熱い人が集う。私自身も、ソフトボールに関わる人たちとの出会いに恵まれて、今があります。

市民の協力あってのソフトボールのまち

はまなす国体をきっかけに、石狩市ではソフトボールを市民のスポーツに指定。「ソフトボールのまち・石狩」として、大会やイベント誘致などの取り組みをおこなってきました。
 
ーー「石狩をソフトボールのまちにしていこう!」というぐらい、当時はすごく盛り上がったのでしょうか?
 
松永:私は当時高校生で選手として出場しただけなので、正直なところ運営されていた方々がご苦労されていた様子というのは記憶にないのですが、まちをあげて多くの住民が協力して盛り上がったと聞いています。
 
ホテルなどの大きな宿泊施設がなかったため、全国から集まったチームを町内会ごとに受け入れる民泊をおこなったそうです。ひと家庭に2〜3人の選手を受け入れたと聞いています。受け入れたご家庭は、選手が所属するチームを応援してくれて、そこからの盛り上がりもあったのでしょう。
 
当時、ソフトボール協会の役員や市の職員だった方は、今でもはまなす国体の頃の思い出を語ってくれます。今回のインターハイの開催に当たっても、いろいろとご意見をいただきました。

ーーはまなす国体での盛り上がりがあったとはいえ、30年以上にわたって「ソフトボールのまち」を継続するのは簡単ではないですよね。具体的にどんな取り組みをされてきたのでしょうか?
 
松永:はまなす国体終了後は、全国中体連やねんりんピック(全国健康福祉祭)をはじめ、日本女子代表チームの合宿など、さまざまな大会やイベントを誘致してきました。
 
個人的に印象に残ってるのは、2008年に北京オリンピックで金メダルを獲得した1ヶ月後のこと。大活躍した上野投手をはじめとする、金メダリスト選手が所属するチームによる日本女子リーグが、この場所でおこなわれたことです。2日間で6,000人が訪れて、観客席は外野の方までびっちりになっていましたね。
 
2008年の北京オリンピック以降、残念ながらソフトボールはオリンピック種目には選ばれず、人気も低迷していました。
 
その後、2020年の東京オリンピック(開催は2021年)で、野球とソフトボールが正式種目になることが決まり、石狩市としても応援やバックアップに取り組もうと、オリンピック・パラリンピックの合宿誘致などをおこなう「野球・ソフトボール競技合宿誘致石狩市推進委員会」を立ち上げたんです。
 
そして、東京オリンピック終了後も、インターハイの開催が決まっていたため、引き続き「ソフトボールのまち・石狩」を全国に向けて発信しようと、2022年にソフトボールのまち・いしかり魅力発信推進協議会が発足しました。
 
30数年にわたって、大会を誘致・開催してきた経験から、グラウンドの整備や大会の運営などについても関係各所から評価をいただいています。こうした活動は、諸先輩方がつないできて今があるんですよね。
 
ここの管理事務所にいらっしゃる佐々木さんという方も、北海道ソフトボール協会の役員で、グラウンドに対する思いが強い方。今夏開催されたインターハイでも、グラウンドキーパーを担ってくれました。熱い思いを持った方が協力してくれるからこその、「ソフトボールのまち・石狩」だと思います。

36年の積み重ねがインターハイの競技会場に

2023年7月22日から8月21日にわたって、北海道各地で開催されたインターハイ。これまでの大会実績などから、石狩市は北海道庁から要請を受けソフトボール競技の会場に。大会期間中、ソフトボール競技関係者は延べで1万人以上が来場しました。
 
ーーソフトボールのまちとしての長年の取り組みが、インターハイの競技会場につながったのですね。
 
松永:そうですね。これまで数多くの全国大会を開催していて、日本ソフトボール協会などからもその実績を評価いただいているだけに、失敗できないというか、担当者としてのプレッシャーは大きくありました。
 
高校の先生をはじめ、協会の役員など、多くの人が関わる大会だったので、これまでとは勝手が違う部分もありました。先生方の生徒への思いと、大会予算とのせめぎあいなどの難しさもありました。なんとか折り合いつけて、乗り越えられたのかなと思いますね。
 
ーー難しさがあった中で、乗り越えられた原動力はどこにあるのでしょう?
 
松永:「全国から集まるプレイヤー(ソフトボーラー)のために」という思いですよね。
 
自分もプレイヤーでしたし、今はスポーツ健康課長として3年目ですけど、その前は地元のソフトボール協会の役員としても関わってきました。
 
石狩のグラウンドでプレーしてもらって、5年後・10年後に家族と北海道旅行にきた時に、また立ち寄ってもらえたらと。今回、出場選手の名前を刻んだ名板を造ったんです。

松永:これは、はまなす国体の時に造設した名板にならったもの。今でもふいに訪れて、はまなす国体の名板に、名前が刻まれているのを確認していかれる方もいるんですよね。
 
連綿とつながっている様子を見ると、乗り越える原動力というか、「ソフトボールをやって、石狩に足運んでくれる人のために」が1番大きいのかなと思いますね。

はまなす国体開催時に造設された記念名板。松永さんの名前も刻まれている。
はまなす国体開催時に造設された記念名板。松永さんの名前も刻まれている。

インターハイでのソフトボール競技の運営にあたっては、スポーツ健康課5名と他部署からの3名に、北海道札幌啓成高等学校の顧問の先生を入れた9名というミニマムな体制だったそう。通常業務に加えてのインターハイ準備を支えたのは、市民の力でした。
 
ーー「ソフトボールのまち」への取り組みを通して、市民の意識に何か変化はありましたか?
 
松永:36年ぶりのインターハイ開催にあたって、市民のみなさんからのご協力をいただきました。
 
今回は学校のグラウンドや公園にある野球場など、合計10数か所を練習会場として使用したのですが、練習会場の運営もすごく大変で。 例えば、学校のグラウンドで怪我をしてしまった際など、緊急時の連絡要員が必要になります。インターハイなので高校生を配置したかったのですが、人手が足りませんでした。
 
そこで、小学生チームの保護者やシルバー人材センターに登録している方にお願いして、 練習会場の整備や緊急時の連絡を受け持っていただいたんです。募集したらすぐに集まってくれて、非常に助かりました。
 
これまでおこなってきた合宿や記事を見て、「ソフトボールに力を入れているまち」として、広く市民に伝わっているのだと感じましたね。
 
ーー市民の協力あってのインターハイだったんですね。
 
松永:インターハイは高校生が主役ではあるんですが、その裏側で力を貸してくれた市民の方がいたことは、非常にありがたかったですね。

世代を超え、ソフトボールの魅力を伝える

長年にわたって繋いできた「ソフトボールのまち」ですが、少子高齢化の波を受け岐路に立たされています。石狩市では「ソフトボール体験会」や「リアル野球盤」の開催など、裾野を広げる活動を実施しています。
 
ーー今後取り組んでいきたいことはありますか。
 
松永: 1人でも2人でも、ソフトボールをプレーする子どもたちを増やしたいですね。
少子化の影響もあり、野球やソフトボールをはじめとするチームスポーツは、なかなか人数が集まらなくなっています。1つの学校でチームを結成することが難しく、今回のインターハイでは初めて合同チームの出場がありました。子どもが多かった僕らの時代とはちがって、「ここまでか」と如実に感じましたね。
 
厳しい状況ではありますが、ソフトボールにしかない魅力や面白さを幅広い世代に伝えていきたいです。子どもだけでなく、年を重ねてもできるスポーツなので。
 
ーー最後に、松永さんにとってソフトボールってどんな存在ですか。
 
松永:「全て」と言うつもりはないですけど、休んだ時期もあるのでね。
だけど、高校の時にソフトボールに出会っていなかったら、今回のインターハイにも携わっていませんし、 石狩市役所にも入っていないかもしれない。
 
大げさに考えるつもりもないんだけども、これまでの人生を振り返った時に、やっぱり大きな存在ですよね。間違いなく。
 
 
少年男子ソフトボール北海道代表チームが国体で優勝したのは、松永さんたちの一度きり。しかし、当時の熱は冷めることなく石狩のまちに息づいています。ソフトボールのまち・石狩は、未来に向け一球一球を大切に刻んでいきます。

石狩市よりご案内

【ふるさと納税・選べる使いみち】
石狩市ふるさと納税では、使いみちを指定しない“市長におまかせ”を除き、寄附者様の意向を反映できるよう9つの使いみちから選択することができます。
その中の一つとして、スポーツに関する事業への項目もあります。

「5 未来のアスリートを応援しよう!」
次代を担う子どもたちのスポーツに対する興味や関心、運動能力の向上を目的としたスポーツ教室を開催します。一流アスリートと交流機会を設けることで、競技力の向上ををめざします。

その他、8つの使いみちや事業実施報告もぜひご覧ください。

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