takibi connect岩見沢市

takibi connect
岩見沢市

時代がかわっても心安らぐまちに 岩見沢に流れる「ゆあみ」のこころ

takibi connect

時代がかわっても心安らぐまちに 岩見沢に流れる「ゆあみ」のこころ

岩見沢市プロジェクト

文:髙橋さやか 写真:斉藤玲子

岩見沢というまちの名前の由来を知っていますか?
開拓時代に休泊所が設けられ「浴(ゆあみ)」の場であったことから、徐々に転じて、岩見沢になったと言われています。夏は、木々や田畑の緑が美しく、冬は雪が壁のようにうず高く積もる有数の豪雪地帯。自然と共生するまちは、時代が変わっても人々の笑顔があふれています。心身に安らぎを与えるまちは、どのようにつくられていったのか、岩見沢市役所の須田さんと東出さんにお話をうかがいました。

左:岩見沢市企画財政部企画室企画調整係 主事 須田将正さん 右:岩見沢市企画財政部企画室企画調整係 主事 東出幸太さん (部署、役職名は2021年7月現在のもの)
左:岩見沢市企画財政部企画室企画調整係 主事 須田将正さん 右:岩見沢市企画財政部企画室企画調整係 主事 東出幸太さん (部署、役職名は2021年7月現在のもの)

鉄道の開削とともにつくられた休泊所

「人々に安らぎをあたえつづけるまち」というテーマに合わせ、お2人が取材場所に選んでくれたのは、いわみざわ公園の室内公園 色彩館。窓の外には広大な緑が広がります。

ーー岩見沢市の由来は「浴澤(ゆあみさわ)」だとうかがいました。開拓時代から、人々の心身を癒す場として親しまれてきたのですね?

須田
:そうですね。明治初期に開拓使が、鉄道を開削する際や道路の開削にあたって、休泊所をもうけました。道路の工事に従事する人々が宿泊したり入浴して、疲れを癒していたそうです。そこが浴(ゆあみ)と呼ばれ、浴澤(ゆあみさわ)から岩見澤(いわみざわ)と転じていき、いまの地名になったといわれています。

東出:岩見沢市内には、石狩川をはじめ川が多く流れているんです。鉄道開削の際に、開拓使が休泊所を設けたのも、岩見沢市内を流れる幾春別川(いくしゅんべつがわ)の川辺。開拓にたずさわる人たちに利用され、その中には、となりまちにあった樺戸集治監の人たちも含まれていたそうです。

須田:現在は、大きな公園がいくつもあって自然と共生しているところも、心身を癒すもとになっているのかなと思います。

ーー癒しや安らぎがまちのベースになっているのはユニークだと感じますし、素敵です。
鉄道や道路の整備が、その後の岩見沢というまちの発展につながっていくのですね?

須田
:はい。明治15年には、おとなりの三笠市から小樽までをつなぐ幌内鉄道が開通し、中間地点として休泊所だった場所が駅に切り替わっていきました。駅ができたことで、人が集まるようになり、さらにまちが広がっていったんです。

その後、主要なエネルギーであった石炭が、岩見沢でも採掘できることがわかりました。万字、美流渡(みると)といった地区に炭鉱ができます。炭鉱の発展とともに、岩見沢のまちには病院やお店など生活に必要な施設がつくられていきました。

いっぽうで、平野が広がる土地柄と、石狩川などの豊富な水脈と土壌を生かし、農業も発展していきます。炭鉱と農業という2つの柱ができ、まちはどんどん成長していったのです。

入植当時の家屋【明治中期】(写真提供:岩見沢市役所)
入植当時の家屋【明治中期】(写真提供:岩見沢市役所)
明治23年10月 士族入植者集合写真(写真提供:岩見沢市役所)
明治23年10月 士族入植者集合写真(写真提供:岩見沢市役所)

すべての旧産炭地が直面する、 地域振興という問題

交通網の整備、石炭の採掘によって発展していった岩見沢。ですが、多くの産炭地と同じように、閉山とともにさまざまな問題に直面します。

ーー炭鉱と農業という2つの柱によってまちは成長していったわけですが、その後、炭鉱は閉山しますよね。少なからずまちにダメージがあったと思うのですが?

東出
:そうですね。時代の移り変わり、石油へのエネルギー転換を起点とした閉山によって、市内でも一部地域では、人口が流出・縮小していきました。

産炭地として栄えていた美流渡地区は、最盛期で1万人くらいの方が住んでいて、「眠らないまち」と言われていたそうです。24時間営業の食堂、映画館、繁華街には、道の両脇にびっしりとお店が並び、かなり賑わっていたみたいです。現在、美流渡地区の人口は350人未満。児童数の減少で、小学校や中学校も廃校になっています。

全国では、1960年代に多くの炭鉱が閉山しましたが、北海道ではその後も石炭生産が続いていました。長年続いた歴史が変わることへの適応は、簡単なものではないのかなと。岩見沢だけの話ではなく、北海道各地での炭鉱なき後の地域振興が、過去のものではなく、いまだに現実的な問題となっている要因の一つだと思います。

昭和37年朝日炭鉱出炭風景(写真提供:岩見沢市役所)
昭和37年朝日炭鉱出炭風景(写真提供:岩見沢市役所)
昭和38年万字炭鉱選炭工場(写真提供:岩見沢市役所)
昭和38年万字炭鉱選炭工場(写真提供:岩見沢市役所)

須田:1970年から1980年代にかけて、炭鉱がつぎつぎと閉山していく中、岩見沢ではもう1つの柱だった農業を中心にした経済活動を促進していきました。実は、農業従事者の人口が北海道で1位なんです。稲の作付け面積も道内1位。岩見沢をささえる幹となる、重要な産業です。

最近は、農業のICT化に向けて、全自動のトラクターなど、先進技術の研究をすすめています。岩見沢は地の利を生かし、稲作や野菜作りが活発だったという背景があります。また、明治40年に岩見沢農業高校の前身である空知農業学校が開校するなど、農業にたずさわる人を育成するための土壌を、早くからととのえてきたのです。

ーー何もないところから炭鉱がつくられ、農業への転換まで実施されるプロセスには、多くの挑戦と苦労があったかとおもいます。それをなし得たのも、人々を温かく癒やすような「ゆあみ」の精神があったからなのでしょうね。

東出
:人口減少とともに、農家さんの戸数や農業者人口も減少している現実もありますが、新規就農やUターンで、農家を継ぐ人も多いです。新しい人を受け入れ、支え合いながら共生していける、居心地の良い土壌が、岩見沢というまちにはあるのかもしれません。

空知地区は道内でも有数のワイナリーがあることから、最近は、ワイン醸造用ブドウの栽培(ヴィンヤード)や、ワイナリーを設立する新規就農者もいらっしゃいますね。

雪が多いからこそ生まれる人と人のつながり

炭鉱の閉山後も、もうひとつの柱であった農業によってまちを支えてきた岩見沢。稲作やワインづくりなどには、有数の豪雪地帯・岩見沢にうず高くつもる雪が役立っていると言います。

ーー雪がワインや農業に役立つというのはどういうことなんでしょう?

東出
:雪があることによって、土がむき出しになって凍ってしまうのを防げるんです。この環境が、ワインの原料となるぶどうに適していて。冬のあいだ雪にまもられることで、作物がよく育つというメリットがあります。
春がおとずれる喜びや、農作物の実り。雪があるからこそ感じられる、「ない時のありがたみ」がわかる側面もあると思います。

ーーなるほど。北海道特有の感覚かもしれませんが、冬に「雪が降った方があったかい」というのはありますよね。いっぽうで、雪が生活の負担になっている面はないのでしょうか?

須田
:確かに、雪が多いと住みづらいという側面はあると思います。けれど、冬になればかならず雪は降ります。ならば、雪と共生する方法を考えた方が建設的。そのため、市役所も市民も雪を楽しみ生かすための創意工夫を行ってきました。

雪を冬のレジャーとしてとらえ、「ドカ雪まつり」というイベントを実施したり。外出しづらい時のために、天候に左右されず利用できる、屋内型施設「あそびの広場」をつくるなどしてきました。

東出:雪の歴史が、人と人をつなげている部分もあるのかなと思います。
雪という問題にたいして、市民ひとりひとりが助け合いながら、全力で立ち向かい、乗り越えてきた。そうした背景によって、日常でも助け合いの文化が残っています。

除雪にいそしむ岩見沢の人々(写真提供:岩見沢市役所)
除雪にいそしむ岩見沢の人々(写真提供:岩見沢市役所)
平成30年 岩見沢市内で排雪作業をおこなう除雪車(写真提供:岩見沢市役所)
平成30年 岩見沢市内で排雪作業をおこなう除雪車(写真提供:岩見沢市役所)

心地よいまちに吹く、新しい風

雪という逆境も逆手に取り、楽しみながら乗り越えている岩見沢。自然と共生する姿勢は、まちづくりにも生かされています。緑のまちづくりとして整備された大規模な公園。四季折々のお祭り。人々に癒しをあたえながら歩んできた岩見沢には、少しずつあたらしい風が吹き始めています。

ーーお話をうかがっていて、何でも「心地よい方向にシフトしていこう」という姿勢が住みやすさにつながっているのかなと感じました。移住する方が増えたり、あたらしい風も吹き始めているそうですね?

東出
:過去に産炭地として栄えていた美流渡に移住する方が、近年増えてきています。1986年頃にアーティストや陶芸家が移り住んだのをきっかけに、人が人を呼んで。パン屋さんやお花屋さん、自給自足で自家発電の暮らしをする方だったり。著名なアーティストも暮らしています。

ーー美流渡になにか惹きつけられるものがあるのでしょうか?

東出
:移住者の紹介や、影響力のある人に惹かれて、という流れがひとつ。もうひとつは、岩見沢市の地域おこし協力隊からの流れですね。
特徴的なのは、移住者だけじゃなく、地域に根ざされてきた方達と一緒になって、風土をいかしながら暮らしていること。小さなコミュニティだからこそ、コミュニケーションを大事にしている印象です。

美流渡には、廃屋や古民家がたくさんあるので、その裏に潜むストーリーに惹かれる方も多いのかもしれません。古民家をリノベーションしてお店やゲストハウスをつくる方がいたり。

移住者が増えている美流渡地区(写真提供:岩見沢市役所)
移住者が増えている美流渡地区(写真提供:岩見沢市役所)

東出:あとは、移住者の中にはライターの方などもいて、地域の魅力を全国に発信しているというのも大きいと思います。移住者目線の情報が本やWEBで発信されることで、より多くの人に共感を与えているのかと。結果、地域自体の価値があがり、いろいろな方に目を向けられているのだと思います。

炭鉱全盛期とは、もちろん様子が違いますが、人や場所といった魅力が、今もこの旧産炭地域にはあるのでしょうね。新しい暮らしを求めて、移住する方は今も多くいます。

ーーそうした、人が人を呼ぶ流れがまち全体にも広がっていくとおもしろいですね。自然とともにこれまで歩んできた岩見沢ですが、未来に向けてどのようなまちづくりを?

須田
:やはり、「自然と共に生きていく」というのが、今後もキーワードになるのかなと。四季折々のうつくしい景色の移り変わり。自然が身近にありながらも、空知地方の中核都市としての利便性や住みやすさを未来につないでいきたいですね。移住してくるアーティストの方も増えているので、流れが広がって、「岩見沢ってアーティストのまちだよね」と言ってもらえるようになるとうれしいですね。

東出:市の「まちづくり」という視点では、多岐にわたる施策をおこなっていますが、大切にしているのは、安全・安心なまちづくり。「買い物に行けない」「交通障害」といった雪害はあるので、冬でも安心して暮らせるまちへの取り組みは、つづけていくべきところですね。
ふるさと納税での寄附金は、冬の除排雪にかかる経費にも利用させていただいているんです。おかげさまで、住民の安全・安心を守る一助になっています。

個人的には、岩見沢にいると安らぎを感じますし、「住んでいることが誇らしいまち」になるとうれしいですね。面白い人がたくさんいるので、岩見沢内外でつながりあって、広がっていくといいなと思います。

終始、熱心にインタビューにこたえてくださったお二人。伝え忘れたことはありませんか?という質問に、「じつは、新しいお祭りがうまれる予定で。北海道教育大学岩見沢校で学ぶ、青森出身の学生が、市民とともにねぶた祭りをやろうと動いていて、今年の夏に1回目を開催するんです。新しい風にワクワクしますね」と、うれしそうに話してくれました。時代の変化や風土にあわせ、築かれてきた心地よいまち。岩見沢は、これからも新しい時代に立ち向かう人々にとっての「ゆあみ」の地として、たくさんの人を支え、癒していくでしょう。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加