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歴史に留まらず深化する。こぶ志窯から拡がる北海道の焼きもの

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歴史に留まらず深化する。こぶ志窯から拡がる北海道の焼きもの

岩見沢市事業者の想い

文:本間幸乃  写真:斉藤玲子
 
北海道で最も歴史のある窯元・こぶ志窯。戦後まもない1946年の創業から、手づくりにこだわった「普段づかいの器」を届けています。
「変えるものと変えないものを見極めながら歩んできた」という(株)こぶ志陶苑こぶ志窯 三代目・山岡千秋(ちあき)さん。時代とともに変化しながら北海道で作り上げてきた、77年にわたる「こぶ志焼」の歴史をひもときます。

三代の手で受け継ぐ、日々の食卓にのぼる器

まず案内してもらったのは、2階の展示室。2009年9月〜10月に江別市セラミックアートセンターで開催された展示会をもとに、歴史、素材、技術、そして産業という、こぶ志窯が大切にしている4つのキーワードから構成されています。

戦後まもない昭和21年(1946年)から始まった、こぶ志窯の歩みについて、まずはうかがいます。
 
ーー初代・三秋(みあき)さんは、なぜ岩見沢の地で焼き物を始めたのでしょう?
 
山岡:戦前、日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)で働いていた祖父・三秋は、戦時中は満州で工場長をつとめていました。
戦後、満州から帰ってきた祖父は、滋賀県にある信楽(しがらき)焼の試験場に就職が決まっていたので、「就職前に挨拶を」と、祖母の実家があった岩見沢市上志文(かみしぶん)町に立ち寄ったんですね。そこは造り酒屋。祖母は造り酒屋の娘だったんですよ。
 
立ち寄った頃にちょうど造り酒屋が合併されて蔵が空くことになり、「手に職があるんだったら、ここで焼き物をやったらどうだ」という話になって。空いた実家の酒蔵倉庫を借りたことが、開窯のきっかけだったと聞いています。
 
蔵で焼き物を始めたのが、昭和21年(1946年)9月。翌年4月、初窯を焚いた時にコブシの花が咲いていたことから「こぶ志窯」と名づけ、焼き物づくりがスタートしました。

大きなタペストリーにある写真は、初代・三秋(みあき)さん。
大きなタペストリーにある写真は、初代・三秋(みあき)さん。

山岡:しかし、その後経営はうまくいかず、上志文の窯は昭和25年(1950年)に閉窯します。
現在の場所に移ったのは、市営の窯業研究所をつくる計画が持ち上がったことがきっかけです。祖父が技師として採用されたんですね。
結局研究所の計画は立ち消えになったのですが、こぶ志窯が有償譲渡というかたちで、昭和29年(1954年)にこの場所で再スタートを切りました。当時は今のような施設ではなく、いわゆる「掘っ建て小屋」だったんですよ。

中央の写真(上)が当時の小屋。写真(下)は初代・三秋さんと、二代目・憬(さとり)さん。
中央の写真(上)が当時の小屋。写真(下)は初代・三秋さんと、二代目・憬(さとり)さん。

ーーこの頃は、三秋さんお一人で作陶されていたのでしょうか?
 
山岡:上志文時代は職人や弟子を何人か雇っていたようですが、今の場所に移ってからの当初は、祖父と父の2人でつくっていたと聞いています。
父は京都市工業試験場(現・京都市産業技術研究所)で2年ほど陶芸を学んだ後、昭和34年(1959年)に作陶にはいりました。こぶ志窯の「基盤」は、祖父と父でつくったと言えるでしょうね。
 
昭和30年代後半に、こぶ志焼らしいオリジナリティのある「海鼠釉(なまこゆう)」が完成し、昭和40年代からヒットしたことで、商売が軌道に乗りました。しかしそれまでは、原料が買えないほど苦しい経済状況だったそうです。
 
原料が買えないのなら、自ら掘って手に入れるしかありません。焼き物に不向きとされる北海道の土や石などの素材を、知識と経験をもとに組み合わせて使うこと。これがこぶ志窯の原点であり、今でも大切にしている考え方です。
 
本来焼き物って、「粘土がある場所に窯を作る」という形で発展するので、産地に粘土屋さんがあって、釉薬屋さんがあって、窯を作る専門の職人がいて、作家がいて‥って分業なんですよ。それぞれに専門家がいて、技術を合わせてつくっている窯がほとんどです。
ただ当時うちは貧しかったし、北海道で焼き物をつくることは一般的ではなかったので、全ての工程を一手に担うしか道はありませんでした。
 
昭和41年(1966年)には北海道で初めて電気窯を導入。それまで使用していた石炭窯や薪窯は手作業で直接燃料を放り込むので、温度や時間の細かな調整が必要でした。あらたに電気窯を導入することで、ロクロ成形による生産に集中できるようになり「こぶ志窯」の名を広めていきました。

深い藍色が特徴の海鼠釉(なまこゆう)。作られた時代や窯、原料によって、その色合いも異なる。
深い藍色が特徴の海鼠釉(なまこゆう)。作られた時代や窯、原料によって、その色合いも異なる。

1960年代後半から、海鼠釉とともにその名を広めたこぶ志窯。当時は製品の9割を海鼠釉が占めていたと言います。
 
その後、1993年に千秋さんが作陶にはいったことを機に、釉薬の調合試験をスタート。藍色以外の赤や紫、白、緑など、鮮やかな発色が特徴の釉薬に改良された背景には、データに基づく緻密な計算と、繰り返される地道な作業がありました。
 
山岡:僕と父で行った釉薬※の試験が、今のこぶ志焼の色の基礎になっています。
「北海道の窯元だから、北海道にある原料をもっと取り入れられないだろうか」と、道内にある火山灰や冷えた溶岩を拾っては窯で焼いて、拾っては焼いて‥。溶けたら釉薬に向くな、溶けなかったら素地に向くな、と、焼き物への適性を一つひとつ調べていきました。
 
 
※素焼きの陶磁器の表面に塗るもの。焼成によってガラス質になり、色や光沢が出る。

油滴天目とは、焼成したときに現れる鉱物の結晶からなる、油の滴のような模様のこと。
油滴天目とは、焼成したときに現れる鉱物の結晶からなる、油の滴のような模様のこと。

ーー気が遠くなるような作業ですね。
 
山岡:拾ってきて、粉砕して原料になるまで1年以上かかるんですよ。僕が家業に入ってからはこんなことばかりやってました。朝から夕方まで調合試験をして、終わってからロクロの練習をして。
 
調合試験をした後も、実際に使用する釉薬としてさらに調整を重ね、製品化に至ります。そこからさらに量産化されるものは、ほんの一部。試作、生産、量産、という段階を踏むので、早くても10年はかかります。

憬(さとり)さん、千秋さんによる試作品。この中で量産に至るのはごくわずかだそう。
憬(さとり)さん、千秋さんによる試作品。この中で量産に至るのはごくわずかだそう。

ーー量産化に至る製品に共通点はあるのでしょうか?
 
山岡:「こぶ志焼らしい」かどうかですね。自分が良いと思うかどうかより、お客さんが「こぶ志焼らしい」と思う製品。
 
祖父が亡くなる前に一度だけ、聞いたことがあるんですよ。「こぶ志焼らしさってなに?」と。そうしたら「気取らないものを作れ」と言われました。
その言葉から、こぶ志焼とは「日常の食卓にのぼる器」だと解釈しています。
毎日ふっと手が伸びて、つい使いたくなる器。「壊れても買い足せる」くらいのものじゃないと、気軽に、毎日使う器にはならないと思うんですよね。だから安価であることは大切です。
技術を上げることで生産スピードを早めたり、原料を一度に大量に仕入れることで輸送費を抑えるなど、価格を下げる努力は今も続けています。
 
そして何より、お客さんが求めているからといって、流行だけを追っていては「こぶ志焼らしさ」を失ってしまう。
時代を読み取り、“変えるものと変えないもの”を見極めることで「こぶ志焼らしさ」を確立してきました。

歴史ではなく今を生きるために。再起をかけた営業活動と生産改革

親子三代にわたって手づくりにこだわり、北海道の石や土などを取り入れ「気取らない普段づかいの器」を作り続けてきたこぶ志窯。現在は千秋さんが一人で作陶しています。
 
展示室から工房に移動すると、そこにはびっしりと並ぶ素焼きの器が。全て千秋さんの手で作られたものです。

千秋さんが30代に機械や棚の配置を考えたという工房。建築士をいれ、作業動線を整えたという。
千秋さんが30代に機械や棚の配置を考えたという工房。建築士をいれ、作業動線を整えたという。

三代目・千秋さんは、名古屋工業大学を経て、多治見市立陶磁器意匠研究所を修了。焼き物文化が根付いた愛知や岐阜で、常滑(とこなめ)焼や瀬戸焼、美濃焼など、日本の代表的な陶磁器産地を知り、26歳で作陶に。二代目の右腕として、こぶ志窯を支えてきました。「30代までは閉じこもっていた。そのおかげで技術は身につきましたけどね」という千秋さん。
その後訪れたある出来事が、こぶ志窯にとっての大きな転換期となりました。
 
ーー作陶活動を始めてから今までで、「これは大変だった」という出来事は何かありますか?
 
山岡:代変わりは難しいと思ったね。
長く続けていると、同じものをつくっていたら飽きられるんですよ。時代とともに軸を持ちながらも変化しないと、事業は廃れてしまう。「このままじゃダメだ」と思い始めたのが、40代に入ってから。その頃には経営状態も悪化していました。
 
父の代まで、商品は受注生産が主だったんです。お客さんからの注文と、問屋への納品分を作っていれば十分商売が成り立ちました。しかし、時代とともにデパート等の食器売り場は縮小し、問屋の数も減ってしまって。このままでは売り上げを伸ばすことはできない。でもどうしたら良いか分からず、悩んでいました。

山岡:そんな時、税理士さんが「営業に行ってみたら」と提案してくれてね。最初は「作陶している本人が営業に行くなんて」と躊躇していたんだけど、この状況を変えるためにと一念発起して、奥さんと二人で営業を始めました。
 
僕は凝り性だから、営業を始めたら夢中になっちゃって(笑)あちこち営業をしているうちに、新千歳空港や銀座のギャラリーなど、道内外で置いてくれるところが増えてきたんですよ。
そこで大きく変わったのが納品方法。納品先からの声を反映して、売り場のニーズにあった商品を予測して作り、発注がきたらすぐ出せるようにしました。安定した品質を保つための工夫も、もちろん大切にしました。
 
僕が代表を継いだのもこの頃で、当時41歳。人と会う機会を意識的に増やして、販売方法や生産スタイルを変えたことで「三秋がつくったこぶ志焼」から「あらたなこぶ志焼」として認知されるようになりました。
 
変えることって、何かを捨てること。祖父が偉大な存在であることはたしかです。だからこそ、早く歴史にしたかった。
たとえ痛みを伴ってでも、時代にそぐわないものは変える決断をしました。過去に頼るのではなく、今できる最善を尽くすことで、こぶ志窯を継承することができているんだと思います。

枠を広げ、はみ出ることで「北海道の焼きもの」を伝えたい

生産方法や販売スタイルを大きく変えたことで、こぶ志窯は「北海道の焼きもの」として認知度も上がっていきました。
次第に千秋さんの元には、陶芸に関する様々な相談が舞い込むようになります。
 
山岡:北海道雨竜高等養護学校の先生から「釉薬を作りたい」と相談されてね。「あちこち相談したんだけど断られた」って言うもんだから「じゃあ作ろうか」って。
 
せっかくだから「雨竜町内にある原料で釉薬を作ろう」って提案したんです。生徒が作ったものは、地域に住む人に使ってほしい。地元の原料を使った焼き物だったら、より身近に感じるでしょ。
先生と生徒たちで、1年かけて見つけたのが米のもみがら。さらに1年かけて、もみがらを集めて粉砕して原料をつくって、試験をして。トータル2年ほどかけて、釉薬を完成させました。
 
教育関係の相談が増えたのは、美唄養護学校での取り組みから。“焼き物”という固定概念にとらわれない子どもたちの自由な発想をどう生かすのか?先生たちとも対話を重ねながら、長年焼き物づくりの授業に関わっています。
 
教育に関わる根底にあるのは「焼きものを知ってほしい」という思いです。
 
僕が考える「焼きものの本質」は、石や土、灰などが粘土になる前、釉薬として調合される前にあります。精製された原料ではなく、その土地の素材である原料からは、何が出るかわからない。だからこそ新しいアイデアが生まれます。
それは北海道で原料を掘り、試験を繰り返すことで製品をつくってきた、こぶ志窯の歴史が体現してきたことでもあるんです。

ニセコで手掘りしてきたという原料。
ニセコで手掘りしてきたという原料。

ーー日々製品をつくるだけでも大変だと思うのですが、「焼きものを知ってほしい」と千秋さんを動かす源はなんでしょう?
 
山岡:好奇心かな。作陶って一度技術を身につけたら同じことの繰り返しだから、新しいことに挑戦したいんですよ。
 
「こぶ志焼」だけでできることって限られるんです。たとえば釉薬が藍色だけだったところに赤や紫を増やす。その色が受け入れられると「こぶ志焼」が広がりますよね。そうやって少しずつ「こぶ志焼」のイメージを大きくしていくことが、この仕事の軸。
 
でも教育関係の仕事って、「こぶ志焼」の制約がないから自由なんですよ。だからこそ、普段はできないことができて楽しいんです。

ーー新しい取り組みにも挑戦されている現在ですが、千秋さんにとって「こぶ志窯」とはどんな存在でしょう?
 
山岡:生業だよね。生きるための手段。陶芸って、そんなに立派な仕事じゃないって僕は思っているんですよ。だから普段づかいの、気取らない器を作り続けるんですね。
 
ただ今は、この生業をとおしてワクワクすることもできている。いつでもやりたいこととやるべきことで満たされているのは、幸せなことです。

取材後、ろくろを使った仕上げの様子を見学させてもらうことに。「なんでも一番にやりたいんだよね」と少年のような笑顔で語っていた表情から一変、そこには30年間ろくろの前に座り続けていた職人の顔がありました。
 
受け継がれてきた信念を守りながらも今を生き、新境地にも挑むこぶ志窯。自宅に迎えた「こぶ志焼」はしっくりと手になじみ、いつの間にか生活に溶け込んでいきました。

会社情報

(株)こぶ志陶苑 こぶ志窯
〒068-0005
北海道岩見沢市5条東13丁目(6条通り沿い)
TEL:0126-22-4303
FAX:0126-22-8810

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