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味噌は人をつなぐ。発酵で地域を照らす南相馬・若松味噌醤油店

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味噌は人をつなぐ。発酵で地域を照らす南相馬・若松味噌醤油店

南相馬市事業者の想い

文:高木真矢子 写真:平塚実里

調味料の「さしすせそ」にも含まれる、日本の伝統調味料である味噌と醤油。日本人のソウルフードともいえる味噌汁、毎日の料理で何気なく使う醤油、どちらも和食には欠かせない存在です。

福島県浜通り北部に位置する南相馬市鹿島区にある「若松味噌醤油店」は、江戸時代末期から続く味噌醤油の醸造元。昔ながらの「天然醸造法」と「麹蓋製法」にこだわり、手づくりの味噌・醤油を届ける一方、「糀あま酒」や「俺たちの醤油ぷりん」など、発酵食品の可能性を広げる商品開発にも取り組んでいます。

職人として醸造を担うかたわら、地域内外で震災の記憶も伝え続ける、若松味噌醤油店10代目で専務の若松真哉さんに話を伺いました。


150年以上の歴史ある家業と28歳の決意

江戸時代末期から地元の庄屋として続いてきた若松味噌醤油店。創業当時は、地域の取りまとめや小作人を雇っての農業など多角化経営を行い、味噌・醤油醸造は事業の一つだったといいます。
150年以上の歴史を持つ家業がありながら、「家業を継ぐ気はなかった」という若松さん。東京で仕事をしていた若松さんが、Uターンを決意した背景とは。


ーー家業を継ぐ気はなかった中、戻られたきっかけは何だったんでしょうか。

若松:2005年の正月明けに、母から「お父さんが病気だ」と連絡があったんです。僕は当時、東京のアパレル関係の会社で働いていました。28歳の頃ですね。

祖父には昔から「家を継げ」と言われていましたが、父からは後継ぎについて何も言われていなくて。空気感は出してましたけどね。家業がある人は、「家を継げ」って言われるもんだろう、くらいに捉えていて正直継ぐ気はなかったんです。

アパレルの仕事では、営業や接客、人材管理などにたずさわっていて、やりがいもあり楽しかった。責任ある立場でしたし、チームのメンバーに迷惑をかけたくない。母の電話から2〜3週間悩んで、上司に相談し、退職を決意しました。

その時、上司に言われた「帰ったら地元に貢献するんだぞ」という言葉は、今でも大切にしています。

「地元に帰って、家業以外にもいろんな組織に入らなきゃいけないのかな・・」って上司にポロっとこぼしたら、「全部入らないと駄目だろう。そこまでの覚悟がないなら、お前は田舎の迷惑になるだけだ。人事に言ってきてやるから会社辞めるのやめろ」って言われてしまって。覚悟が決まりましたね。

ーー素晴らしい上司の方がいらっしゃったんですね。なかなかそこまで言ってくださる方もいらっしゃらないんじゃないでしょうか。

若松:「そんな覚悟なら辞めるのやめろ、お前みたいなのが戻ったって地元も使えないから」と口を酸っぱくして言われましたね。笑

本人は覚えていないでしょうけど、今は「ハムカツ太郎」として活躍している原匡仁さんという方。すごく尊敬する上司でした。

ーーそうして送り出してくださると、強い意志を持って家業に入っていけそうですね。

若松:そうですね。父も祖父も消防団に入っていたり、地域の取り組みには関わっていたので、そういう空気感を理解できていたのもあると思います。

そうして2005年4月、高校卒業ぶりに戻った地元・南相馬市。
まずは、地元での人脈作りから始まりました。
イベントのボランティアや消防団など、声がかかったものには二つ返事で受け、次第に自分から企画することも増えていったといいます。

東日本大震災で壊れた「当たり前」

家業に戻って6年、仕事にも慣れ、地域とのつながりも増えた若松さん。順風満帆に見えた2011年3月、東日本大震災が発生。南相馬市を震度6弱の地震と津波が襲いました。

若松味噌醤油店は、壁が剥がれた程度で家族や従業員の被害はありませんでしたが、市内では地震による大津波被害で亡くなった人や、原発事故の影響による警戒区域発令で故郷を追われる人も多くいました。

若松:震災では南相馬市全体で本当に大きなダメージがありました。
農作物や海産物の放射線量の問題や、「福島」というだけで受ける風評被害によって、商品が売れなくなる。味噌作りに必要な豆も、地元福島や宮城の農家から仕入れることができない。全て真っ暗で先行きが見えなくなる、ということをこの震災で経験しました。

南相馬周辺では、東日本大震災をきっかけに一次産業がストップし、農業離れが進んでいます。この地にあった文化すらも途絶えかけています。

当時の苦しかった胸のうちを明かしてくれた若松さん。
一瞬、影を落とした横顔に、震災の爪痕の深さが垣間見えました。

震災後、残る寒さの中、言葉少なくうつむくことが増え、日増しに重く暗くなるまちの雰囲気。そんな中、若松さんの背中を押したのは、知人からの一言でした。

「若松さん、私達はアドバイスするだけです。やるのは若松さんですからね」

若松:震災後、コンサルのような形で入ってくれていた方が、サラッと言った言葉だったんです。一見、冷たく感じるかもしれないですけど「ああ、その通りだな」と思って、ストンと胸に落ちました。

震災後、いろいろアドバイスをしてくれる方はいましたが、「相手がどういう生き方をしてきて、どんなビジョンを描いていて、今こうなっている」という深いところまで接しないと、本当の意味でのアドバイスはできないと思うんです。
最終的にやるのは自分だけど、サポートしてくれる方は必ずいる。そう思うと「1人じゃないんだ」と、気づいたんです。

「自分がやらなきゃどうする」
若松さんは自身を奮い立たせました。

「自分がやらなきゃどうする」踏み出した一歩

ーー震災後、どんなことに取り組まれたんですか?

若松:被災地の復興支援や夜間巡回などのボランティアもしましたし、「地域の現状が首都圏に届いてない」という声があれば、バスツアーで来た首都圏からのお客様に被災地を案内する復興ツアーもやりました。

震災の翌年2012年には、「丹波黒大豆味噌」を開発しました。
風評被害によって福島と宮城の大豆が使えなくなってしまったので、丹波篠山の黒豆を仕入れて、うちの麹と熟成発酵させて。設備投資はせずに、発想を切り替えて生まれた商品です。

うちは代々絵に書いたような家族経営の小売店。だから、お金をかけずに知恵を絞るしかない。

甘酒も、以前は自社で製造していて、おいしいけど日持ちしなかったんです。たまたま出会った企業にうちの麹を送って、製造をお願いしたところ、功を奏して、販路を広げるきっかけになりました。無添加でありながら、日持ちする商品になった結果、流通量も増えて、多くの人に知っていただけるようになりました。

(写真左)震災による風評被害をバネに生まれた丹波黒大豆
(写真左)震災による風評被害をバネに生まれた丹波黒大豆

若松:そんな風に“商品数を増やす”というより、“ブラッシュアップ”をコツコツ積み重ねています。東日本大震災で、多くの方に助けていただいたおかげで、立ち上がることができて、「大丈夫だ、まだいける」って思える。

ありがたいことに、味噌離れが進むこのご時世でも売上は伸びていますが、まだ震災前の売上には届いてない。「目指すのはこんなところじゃない、震災前以上だ!」と常に自分に言い聞かせて頑張っています。

だから、まだ全然道半ばですけど、手綱を緩めなくて本当によかった。大切なのは「変化し続けること」なんだと痛感しています。

震災後、新たなニーズ獲得にも勤しんだ若松さん。過去に行った地元の保育園での味噌作り教室の評判を耳にした団体から、都内の子どもたちへの味噌作り教室と、震災から復興までの講話をしてほしいという依頼を受けました。

若松:味噌作りと震災から復興までの話を聞くというエネルギーのいる内容で、帰りのバスで子どもたちも疲れて寝てしまうくらいでしたが、味噌作りと地域がリンクしたと実感できたいい機会でした。

うちの客層は60〜80代ですが、味噌作り教室は主に子どもが対象。子どもには美味しいものを食べさせたい、添加物が入ってるものを食べさせたくないという、食に関心の高い保護者のニーズを感じました。

ビジネスとして形にしようと構想していたところ、コロナの感染拡大で、味噌作り教室は難しくなってしまって。だったら、自宅でもできる味噌作りキットにしようと動きだしました。

味噌って美味しくて、体にもいいし、一緒に作ったり分け合ったり、繋がりを保つツールにもなるんです。

味噌作りキットのパンフレット。夏休みや冬休みの長期休暇に注文が多く入るという。
味噌作りキットのパンフレット。夏休みや冬休みの長期休暇に注文が多く入るという。
地元の高校生が「味噌作り教室」で作ったという味噌。蓋を開けるとふわっと味噌の香りが広がる。
地元の高校生が「味噌作り教室」で作ったという味噌。蓋を開けるとふわっと味噌の香りが広がる。

味噌商いを通じたコミュニティ形成へ

「味噌は人と人をつなぐ重要なツール」だと、若松さんは言います。その一方ですすむ“味噌離れ”。福島県味噌醤油工業協同組合の加盟企業は、昭和40年代の200社から、現在は70社と、減少の一途をたどっています。若松さんはこの状況をどう捉え、舵を切っていくのでしょうか。

若松:味噌離れが止められないことは、十分わかっているんです。時代が変わり、味噌は当たり前の存在ではなくなりました。これから100年を見据えた時、例えば「子どもと一緒に作った」など、何かしらの付加価値がなければ、食卓には置いてもらえなくなるでしょう。

飲み物でも食べ物でもない、味噌や醤油は、他の食材とスクラムを組むことで力を発揮できるもの。味噌は、味噌汁の中で、海の幸、山の幸、豆腐など、全てをつなぎ、栄養価満点のひと椀にすることができる。人も物も繋ぐ、重要なツールなんです。

2022年3月の地震で5つの蔵全てが被害にあったという。
2022年3月の地震で5つの蔵全てが被害にあったという。

ーー今年8月に販売開始した松永牛乳さんとのコラボ商品「俺たちの醤油プリン」も、付加価値であったり、「人や物を繋ぐ」という視点から生まれた商品の一つでしょうか。

若松:そうです。2022年3月の地震で南相馬市も大きな被害がありました。
うちも5つの蔵が全壊、半壊、大規模半壊となりました。2011年の東日本大震災から立ち直ってきて、「さぁ」というタイミングで2020年からのコロナ、そして今回の地震と、地域も暗くなっていました。

そんな時に、松永牛乳の社長である井上さんと話をして、「松永さんのプリンにうちの醤油を入れてみようか」と。サンプルが上がってきた時に、改めて「そういえば、地元の企業同士がコラボして大々的に打ち出すアイテムって、これが初めてなんじゃないか?」という話になったんです。せっかくならポスターやプレスリリースも作成しようと、デザイナーが加わり、販路も決まり、あっという間に展開していきました。

ーー予期せぬことも起こるので、時代の変化に合わせていかないと、続けていけませんよね。改めて、今後取り組んでいきたいことや目標にしてることはありますか?

若松:まだまだ道半ばの味噌作り教室と、味噌を使ったイベントの開催です。
味噌醤油を通して、地域のコミュニティをつなぎ深めるような仕事もしたいですね。

味噌や醤油には、商品コラボのように物と物をつないだり、人と人をつなぐ力があります。味噌醤油店も、周りと手を取り合うことで、新たなつながりをつくることができる。この商いを通して、コミュニティをつなぐお手伝いができればと思いますし、できると確信しています。

味噌っていう商いは単体だけでは終わらない。これからも、いろんな人たちとスクラムを組んで広げていきたいですね。

映画「山猫」の中で出てくる「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない(We must change to remain the same.)」という言葉が大好き、そう力強く言い切っていた若松さん。
発酵過程のように、時代に合わせて少しずつ形を変える家業と、インタビュー中にもどんどん飛び出すアイデア。若松味噌醤油店からあふれるパワーは、発光し、南相馬市の未来を明るく照らすかけがえのない存在であり続けることでしょう。

会社情報

〒979-2355 
福島県南相馬市鹿島区鹿島字町 181
TEL・FAX 0244-46-2016
フリーダイヤル 0120-35-2940
営業時間 9:00~18:00(日曜定休)
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