
【ニセコ町長インタビュー】創造的摩擦が生み出すニセコのイノベーション
ニセコ町プロジェクト
取材:中村敦史 文:髙橋さやか 写真:斉藤玲子
北海道が世界に誇るリゾート地「NISEKO」。世界中から毎年多くの人々が訪れるこの地は、かつて危機に直面しました。窮地から脱し、通年型リゾートへと変貌した背景には、住民と役場それぞれの主体的な働きがありました。
挑戦の息吹が宿るニセコ町のまちづくりについて、片山健也 ニセコ町長にお話をうかがいました。

世界のNISEKOはこうして生まれた
農業と観光のまちとして歩んできたニセコ町。しかしながら1990年代、バブル景気の崩壊とともに宿泊客が半減し、まちは窮地に。そこからどのように、現代のニセコが築かれていったのでしょうか。
片山町長(以下、片山):宿泊客が半減した当時、住民のみなさんが「この先、宿泊客数を回復できるのだろうか・・」と危機感を抱き、3つの改革をおこないました。
1つ目は近隣諸国への観光誘致政策、2つ目はニセコルールの策定、そして3つ目が観光協会の株式会社化です。
1つ目の観光誘致政策では、国内外の観光先進事例を訪ね、成長要因を分析しました。そのひとつ、フランスのパリ近郊では近隣諸国のリピーターによって、観光分野が安定した成長を遂げていたのです。
これから人口減少社会に入る日本で、小さなパイを奪いあっても限界がある。近隣諸国からの観光誘致を目指し、まずは台湾、次いで香港へと向かいました。

観光誘致政策は功を奏し、香港を起点にオーストラリアやヨーロッパ、アメリカへと情報が伝播していきました。インバウンドが着実に増える一方、冬のニセコでは雪崩という課題を抱えていました。
片山:今では世界中のスキーヤーに名を馳せるニセコのパウダーですが、かつては日本で最も雪崩による死亡事故の多い山でした。スキー場のコース外、いわゆるパウダーの谷間に入って亡くなる方が、非常に多かったのです。
その状況をなんとかしたいと、1995(平成7)年に有志でスタートしたのが「ニセコ雪崩ミーティング」です。ニセコ雪崩調査所を営む新谷暁生さんが中心となり、頻発する雪崩事故への対策について毎年話し合いを重ねました。
「利用者の自由を尊重し、安全を守るには?」役場も一体となって議論が重ねられ、2001(平成13)年「ニセコルール※」が策定されました。
ニセコルールは瞬く間に、CNNやフィナンシャルタイムズなど、各国のメディアで取り上げられました。ニューヨークタイムズでは「日出ずる国の滑降。神秘の雪に出会える場所がある」と紹介され、世界中に“ニセコのパウダー”が知れ渡ることとなったのです。
※ニセコルールとは日本で初めてのコース外滑走に関わるローカルルールで、スキーヤーの滑走の自由を尊重しつつ、最低限の規制を設定。ゲレンデからバックカントリーへの出口を、各スキー場内に設けたゲートに限定するなど、危険を避けるために9項目の「約束」が定められている。
ニセコルールの策定に大きく寄与した新谷暁生さん(ニセコ雪崩調査所長)は、「ワールド・スキー・アワード 2014」で特別賞を受賞。世界のスキー界に大きく貢献したとして、世界初の人物表彰を受けました。新谷さんは今もウィンターシーズンになると、毎早朝ゲレンデパトロールにでかけ、インターネットで「ニセコなだれ情報」を発信しています。

1990年代の近隣諸国への観光誘致政策、2001(平成13)年のニセコルールの策定と、役場と住民の働きによって、ニセコ町では基幹産業である観光分野の環境が整えられていきました。そうした中、3つ目の改革としておこなわれたのが、観光協会の株式会社化です。
片山:観光協会の株式会社化は、2003(平成15)年当時、日本初の試みでした。行政依存の観光協会から独立しようと、ニセコ町とニセコ町民が50%ずつ出資して設立し、自主自立的な運営を進めたのは大きな成果です。
ーー大きなチャレンジで、さまざまな苦労があったと想像します。
片山:「時期尚早」「前例がない」など、批判的な声も多くありました。役場主体から株式会社になることで、 利益優先で切り捨てられるところもでてくるのでは?という懸念もありました。全国公募で事務局長に着任した木下 裕三さんは、非常に苦労したと思います。
町を二分するかのような議論の中で、プロジェクトの中心となった人々の胸にあったのは、「行政に依存する社会から脱皮したい」という強い思いです。
活動にたずさわった方々の熱意、当時の逢坂誠二町長による挑戦を後押しする方針。さまざまなプラスアルファの力が働いたことで、議会にも全会一致で認められ、株式会社ニセコリゾート観光協会は走り出しました。

片山:今では観光協会とビュープラザ直売会が管理する「道の駅・ニセコビュープラザ」は、多くの観光客で賑わっています。朝採れの野菜が並び、地域の農家と町内のホテルがダイレクトに繋がる場にもなっています。
ニセコ町内の特産品を提供するホテルもあり、地域で資源やものに加え、経済も循環する社会に向けて、進展してきた感じがしますね。
ニセコ町内の取り組みは、お隣の倶知安町で夏のアクティビティを導入した、ロス・フィンドレーさん(NACニセコアドベンチャーセンター代表取締役)らの試みとともに、重層的な形で世界に顕伝され、長期滞在・通年型のリゾート地「NISEKO」が築かれていきました。
役場が主導する社会から、住民一人ひとりが主体的な組織や仲間をつくり、行政にとらわれず動いていく社会。それが本当の意味でのまちづくりや多様性、イノベーションを生み出すのだと、私は考えています。

子ども時代から育まれる、主体的なまちづくりへの参加
「住民の皆さんが主体的に動いた結果、今のニセコの礎が築かれた」と片山町長は言います。住民の主体的な関わりは観光分野だけでなく、子育てや教育の分野でも。2003年(平成15年)にオープンした、ニセコ町学習交流センタ- 「あそぶっく」の設立に際しては、読み聞かせ活動をおこなっていた2つの民間団体が中心となったそう。
片山:当初「あそぶっく」は図書館をつくる方向で話が進んでいましたが、図書館法に則った形では多くの制約がありました。そこで「図書情報交流センター」という形で、読み聞かせ団体に所属する親御さんが運営する方向へと舵をきりました。
運営に対する批判的な声が上がるなど、設立に際してはさまざまな紆余曲折がありました。いざ着工のタイミングで、運営メンバーが先進事例を視察に行き、設計の見直しをしたり。ようやく施設が完成したら、運営側から「やっぱり役場の人を置いてほしい」「教育委員会の職員を置いてほしい」という声もあがりました。
運営に不安を抱く気持ちはわかるものの、1人でも役場の職員を置くと前例主義になり、制約が増えてしまう。何度も話し合いを重ね「役場は関与しないけれども、財政的な部分などの支援はします」と、背中を押しました。
2003年(平成15年)2月には任意団体あそぶっくの会が設立され、同年4月にニセコ町学習交流センター「あそぶっく」が開館しました。
あそぶっくは2005年(平成17年)3月に町おこし活動として内山賞を受賞。2007年(平成19年)6月には任意団体だったあそぶっくの会はNPO法人に。今では子どもからお年寄りまで幅広い世代が利用する自由な場として成長し、住民の交流の場となっています。

あそぶっくの設立より2年さかのぼった2001(平成13)年、ニセコ町では「ニセコ町まちづくり基本条例」の制定とともに「小・中学生まちづくり委員会」と「子ども議会」が設立されました。
ーーtakibi connect でも取材しましたが、まちづくり委員会や子ども議会など、ニセコ町では子どももまちづくりに関わっているのが印象的でした。
片山:日本の社会では選挙権を得る年齢になるまで、子どもたちが政治的な活動や町づくりに関与する機会がほとんどありません。まちづくりが自分ごとになっていない状態で、選挙権だけを与えられても、戸惑ってしまいますよね。そこでなんとか、子どもがまちづくりに参加する機会をつくっていきたいと考えたのです。
議会では子どもたちによる予算提案がおこなわれます。たとえば交通安全ひとつとっても、子どもたちは大人が気づかない細かな点に着目し、改善策を提案します。子どもならでは視点で町政に関与するのは、非常に大切な機会だと思っています。
子どものまちづくり参加を進めてきたニセコ町が、2021(令和3)年から取り組んでいるのが町立ニセコ高校の改革です。DXハイスクールとしてデータやAIを用いて地域の課題を解決し、新しい価値提案をする「起業家教育」を打ち出し、小樽商科大学とともにアントレプレナーシップ育成プログラムを開発。「シビックプライドを持ったグローバル人材の育成」を目指しています。
片山:2023年に本谷一校長が着任してから、「まちづくりや社会の課題を解決するのが高校の役割」という方針のもと、生徒が自分の考えを発信し行動する力を養っています。
先日、立教大学でおこなわれたシンポジウムでは、コーディネーターの方から、ニセコ高校の生徒による質問に対して好評をいただきました。
教育によって生徒たちは大きく変化するのだと実感しましたね。
今後は子育てや教育の分野で、子どもたちの背中を押すような仕組みを、ふるさと納税でも取り入れていきたいと考えています。

自由と寛容性のある“風通しの良い”ニセコに
挑戦の風土が培われてきたニセコ町では、新たなチャレンジが絶えません。世界のお茶専門店「ルピシア」の本社移転や八海醸造によるニセコ蒸溜所の設立など、大企業の新たな挑戦に加え、地域でなりわいを見つける人の姿も。
ーーニセコ町にやってきて、新たにチャレンジする人も多いのでは。
片山:そうですね。1人で起業する人も増えていますし、地域おこし協力隊から、農業者とコラボして会社を立ち上げた方もいます。
ある年、地域おこし協力隊隊員から「任期期間中3年間のミッションが決まっている方が良い」と声があがったんです。
そこで私は問いかけました「皆さん本当にそれでいいの?」と。
「自分の人生をかけてニセコへ来て、 全てレールが敷かれている中で活動して楽しいですか?自分たちで考え行動して、生み出していくものが何もない。貴重な3年間をそんな風に過ごしていいの?」と。
話し合いの結果「ニセコ町のまちづくり・コミュニティの担い手として、主体的に活動する、今のスタイルのままが良い」と、協力隊員の意見がまとまりました。
地域が活性化するためには、全く異質な価値観を持った人が加わることが大切です。
私はよく言うんです「皆さんの発想を大切にして、前例や地域的に捉われているしきたりは、どんどん壊してください」と。 表現は自由だし、自分の意見をどんどん言ってほしい。 多少ぶつかり合っていいんですよ。
その熱量が、創造的摩擦が、次のイノベーションを生むのです。

ーーさまざまなイノベーションが生まれてきたニセコ町ですが、最後に現在取り組んでいることや今後の構想について教えてください。
片山:ひとつは、ニセコミライプロジェクトです。
2020年7月に設立された株式会社ニセコまちを中心に、脱炭素社会への架け橋として、高気密・高断熱の住宅政策をおこなっています。
もうひとつが森林の活用です。株式会社ニセコ雪森考舎が中心となり、森と経済と暮らしをつなぐ森林活用を目指しています。森の持つ多様性や健康寿命などのメリットを検証・発信し、森での体験を提供しようと構想しています。
将来的には林業の体験ツアーや森林ウォーキングやサイクリング、森の学校など、森の可能性が広がっていくと、さらにニセコらしい取り組みになっていくでしょう。
農業と観光の町であるニセコ町が信頼を得ていくには、景観対策や環境対策もカギとなります。20数年前から地球環境負荷の低減に取り組み、実質のリサイクル率は9割を超えています。
地球環境への負荷を低減させ、豊かな自然環境を次世代につなげるのは、我々の使命です。化石燃料を極力使わない社会を目指し、自然再生可能エネルギーを最大化するべく、さまざまな調査も進めています。
環境に配慮した取り組みに共感する人々が訪れるようなリゾートになりたいですね。

片山:さまざまな人やプロジェクトが動き出し、誰一人忖度しない社会になってきています。カリスマ的な一人に依存する社会は持続しません。
どんな人も各々プライドを持って生きている。基本的人権や尊厳を持った一人ひとりが、主体的に考え、行動していく。成功体験や誇りが積み重なり、人格が形成されていく。
そういった風土が町内に少しずつ広がってきている印象です。
多少の苦労をともなっても、考える社会に切り替えていくことが大切。
絶えず自由の風を吹かせ、個性豊かな人々を受け入れられる、寛容で住みやすいまちを目指していきます。
ふるさと納税制度の制定前から、ふるさと住民票を取り入れるなど、先進的な取り組みを重ねてきたニセコ町。「土地の恵みを生かした魅力的な産品がたくさんありますから、それをきっかけに、ニセコファンが広がっていくとうれしいですね」と、片山町長は語っていました。
個性豊かな住民とともに、ニセコ町の挑戦はつづきます。
Information
ニセコ町よりご案内
【ふるさと納税・選べる使いみち】
ニセコ町では、ふるさと納税寄附金を下記の11つの使い道から、寄附申出の際に選択することができます。平成30年4月1日からは寄附金活用の事業を拡大し、より多くの皆様の意見を反映できるよう進めております。
1.森林資源の維持、保全及び整備に関する事業
2.環境の保全及び景観維持、再生に関する事業
3.自然エネルギー及び省エネルギー設備の整備に関する事業
4.有島武郎に関する資料の収集及び有島記念館に関する事業
5.住民自治の醸成又はコミュニティの推進に関する事業
6.教育、スポーツの振興及び子育て環境整備に関する事業
7.住民福祉及び生活環境整備に関する事業
8.NPO及びボランティア組織の活動に関する事業
9.産業振興に関する事業
10.その他まちづくりに関する事業
11.ニセコ高校の教育環境整備支援事業
事業実施報告もぜひご覧ください。